【対談】釧路ビアリーグにかける想い3

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「日本のホッケーのことを考えて動け」

中島:早稲田終わって、古河電工ってところに入ったけれど、4,5年やったらカナダ行こうって思ってたから、そのとき珍しかったけど契約選手になった。ところが、2年で廃部になって、日光アイスバックス立ち上げの混乱期に立ち会うことになった。

バックス立ち上げ期に高橋健次さんていう、膵臓癌で亡くなったひとがいて。余命1年を宣告されてもバックスのために最後の最後までスポンサー獲得のために頑張った人なんだけど、そのひとが、カナダにいる俺に最後亡くなる直前に電話で、

「なかじ、バックスは心配するな、日本のホッケーのことを考えて動け」

って。それが本当に最後に交わした会話なんだけど、その言葉があって今も頑張っていられるのかな。

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バックスでの写真

中島:あとは当時のバックスの仲間が、もう最高の仲間だった。苦労して苦労して、みんな毎日スポンサー獲得して。本当になんとか開幕戦を迎えたときにはみんな涙目になって、試合できることが奇跡だった。

そのあとまもなく高橋健次さんが亡くなるんだけど、俺の人生の中では最高の経験が出来て、それがきっかけで、ホッケー選手よりも、俺にしか出来ないことをホッケーのためにやろうと思ってカナダに渡った。それがバックス2年やったあと。

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渡航当時

残金106円からの再起

小林:それは紹介があってカナダに行ったんですか?

中島:いや、これがね、とある偉い人に直談判してカナダの連盟の方を紹介してくださいとお願いしたら、

「俺は偉いからそんなことはできない」

って言われて、絶句したことがあったんだ。所詮そんなものなんだなって思ったよ。

自分の地位と名誉のためにやってる人と、バックスの仲間たちみたいに、死にもの狂いでチーム立ち上げて、文字通り命かけて、スポンサー獲得してた人たちの思いと、この人たちはこんなにも違うんだなって。

だから、自力でカナダに渡った。向こうに一人だけ、仲間がいてそこのスポーツ店でアルバイトさせてもらうってことだけを決めて、それを頼りに行った笑。自分でコーチングスクールのお金も払って、ライセンス取って・・・

バックス時代の貯金も少しは持っていたのだけれど、さっきの高橋健次さんがなくなったりして前日航空券とか50万もするのだけれど、それで日本に行ったり来たりを繰り返していたら2年目ぐらいで、口座残金106円になって、手元に400ドルしかないってことになった笑

小林:それはヤバイですね笑

中島:その時は、ほんとうにどうしようかなと思った。その月の家賃も払えないくて。日本にログハウスを輸出する業者やったら年収何千万だよとか誘われたり、寿司レストランのウェイターやらないかって誘われたり。

でも、それは俺がやりたいことではなかった。もちろん、そこで折れるって選択肢もあったのだろうけれど、日本のホッケーのために、そのためだけにカナダに渡ってきた。だから、貫き通すことにした。

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現地のホッケーショップで

小林:具体的にはどうしたんですか?

中島:俺が活きる、俺しかできないことで稼げないかなと思って、バンクーバー現地の日本人向け情報誌に「ホッケー教えます」って広告を載せたら、人が集まってきて。一応そのとき向こうのレベル1のコーチングライセンスを既にとっていたから。

小林:ライセンスってどういうランク分けなんですか?

中島:いろいろあるんだけど、当時俺が持ってたのはレベル1から5まである中のレベル1。レベル1は初級者、2は中級者、3は上級者レベル4、5は学者レベルかな?だからどこかの大学の研究室に入らないととれない。普通の人は3までしかとれない。

ライセンス持ってたから、スクールに人も集まって、だんだん韓国人とか大人の人が来たりして、大人向けのスクールをやったりもするようになった。

毎回20人とか30人とか来るようになると1回5〜6万稼げるようになる。でもそれだけだと、俺はいつか飢え死にすると思って今のユニフォームを作るウェブサイトを作ってオーダーをとるようになった。プロフォーマンスの立ち上げはそんな感じ。

お金もちょっとずつ貯まるようになって、帰りの航空券もとれて、いろんな鹿児島とかからもコーチグオファーをもらえるようになった。

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鹿児島で

小林:UBC(University of British Columbia)でコーチングしていたとおっしゃってましたが、ライセンスも大学でとったんですか?

中島:いや、ライセンスはセクションごとにカナダの連盟が発行するもので、バンクーバーだったらPCAHA、パシフィックアマチュアホッケーアソシエーション?みたいなやつかな。

そこで5日間のコースを受けてレベル1が取れる。日本人で持っている人はほとんどいないんじゃないかと思う。紹介がないとレベル3はとれないのだけれど、ちょうどこの前、紹介してくれるって人がでてきて。だからレベル3をまた取りに行こうと思う。俺の夢だったから。

今、日本のアイスホッケーに必要なこと

小林:ビアリーグって日本のホッケーを救う一石だと思ってます。社会人を引き止めて、リンクを稼働させて・・・親がやれば子供もやる。

だから、子供たちの受け皿も同時並行で作っていかないといけないですよね。いまの日本の学校部活動方式じゃなくて、カナダ方式のレベル制とかにすればいいのかなと。

中島:まだそこまでは・・・・うーんでも、誰かがやらないとかな笑。まずは学校しか参加できない、クラブチームが参加できない大会がおかしいと思うからそこからかな。

小林:いつかできますよ。やりましょう!ビアリーグを釧路以外に広めるとしたら次はどこでしょうか?

中島:俺は全くどこかに進出しようとかは思っていないんだよね。釧路を見て東京とかでやりたい!と言ってくれる人が出てきてくれればいいな。

東大とか九大だとか大学生でホッケー始めた子たち、その子たちには「ホッケーはじめてくれてほんとにありがとう」って思ってる。

でも、その子たちが4年間で「燃え尽きた」って言って競技やめちゃうんだよね。一所懸命頑張った。でも社会人の国体レベルには及ばない、おじさんのチームはまたちょっと違う、だからやめます。悲しくなるよね。

特に西日本は受け皿がない。だから次ビアリーグができるとしたら西日本にできてほしい。それが理想。

ビアリーグは成功ですか?

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中島:前に、NHKのインタビューで「ビアリーグは成功だと思いますか」って聞かれたんだけど、もちろん「成功だと思いますよ」と答えた。そうしたら「何人だと成功だと思いますか」って聞かれて。いやいや違うよと笑。こう答えた

「何人とかじゃなくて、一人の人がホッケー楽しかったって思えばそれが成功だと思います」

人数が1000人だったら成功で10人だったら成功じゃないっていうのじゃなくて、一人の人がホッケーすっごい楽しいと思ってくれて、その子供がそれを見て、楽しいと思ってくれて競技を始めてくれたらそれは成功だと思う。

釧路の人たちはめちゃくちゃ楽しんでるから、だから人数に関わらす成功だと思いますって。そう答えた。

小林:ほんと泣きそうになるくらい良い言葉ですね・・・

ホッケーをやめざるを得なかった鹿児島の子供たち

中島:あと、俺のモチベーションはどこからくるの?とも聞かれたんだけど、二つあるかなって。一つはさっき言った高橋健次さんに「日本のホッケーはまかせた」って言ってもらえたこと。もう一つは鹿児島の涙を流してホッケーをやめて行った子供たち。

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鹿児島でのホッケースクール

中島:10年くらい前の当時、鹿児島のリンクでカナダから日本に帰ってきてはじめて日本で指導したんだけれど、俺はそこで人生初めてのホッケースクールをやることができて、個人的には満足して「また来るからなー!」なんて言ってたら、

「ありがとう、最後のホッケーが中島さんとでよかった」

って言われたのが未だに心に残ってる。「なんで?」って聞いたらリンクが来週潰れるんだって・・・。自分はスクールやってとっても満足した気分になっていたけれど、情けなくなったよね。

自分は好きでホッケー教えているけれど、現実にはホッケーできなくなって泣いてる子供たちがたくさんいるんだって知ったそのとき、俺はこのままじゃいけないってすごい考えさせられた。それが俺のモチベーションというかきっかけの一つ。

だからね、「最後のアイスホッケーが中島さんでよかった」って言葉と、高橋健次さんの「お前は日本のホッケーをなんとかしろ」っていう言葉、これがなかったら106円のときに心折れてたと思う。

小林:ありがとうございました!

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投稿者:小林泰

 

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東京大学運動会スケート部アイスホッケー部門2015年度副将 公益財団法人日本アイスホッケー連盟国際委員 カナダに住んでいたがアイスホッケーを始めたのは大学から。会社を始めたばかりなのでお金、ありません。。。。
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